法華会創立90周年記念会に当って

               春日屋  延 子
              (かすがや のぶこ 法華会理事)

 財団法人 法華会の創立は大正3年と聞く。今年は90周年で記念すべき年に当る。古い会員となった私が、おぼろ気な記憶を辿って感想文を書くことになった。記憶違いのところは御寛恕をお願いしたい。

 思い出すのは、私の物心つく以前から、実家の父の机の上にはいつも『法華』という雑誌があった。表紙は三分の二程は黒で残りの白い部分に縦書きで『法華』と書かれていたように記憶する。それも大分怪しいが……。

 父はその雑誌を非常に大事にしていて何遍も読み返していたらしい。ある日、パラパラと中の貢をめくった私は、挿し絵もない、マンガもない、難しそうな字ぼかり並んでいるこの雑誌が、どうしてそのように大事なのか、父に質問した。父はまだ幼い私に「まだ幼稚なお前には分らないだろうけれど、大人になったら離れなくなるよ」と、何ともあやふやな返事をした。「ふーん」と答えた私だったけれど、全く一生の指針になったのは父の予言のとおりになった。

 大正3年、山田三良(さぶろう)・矢野茂(しげる)・小林一郎の三大先生によって設立された財団法人法華会に明治29年生まれの父は20歳そこそこの若さで入会させて頂いた。父なりの青春時代の悩みや将来の目的などで迷っていて、善き師を必死に求めていたに違いない。殊に山田先生に対する父の傾倒は一生続いた。晩年の父の日誌にも、節々に山田先生に逢えた幸せな思い出があった。昭和19年の戦時下に小林一郎先生が他界され、矢野茂氏も前後して亡くなられた。このお二方の御他界は法華会最大の危機と聞いた。

 敗戦後、私は何を目標に生きたらよいか、全く分らなかった。私が満6歳の時満洲事変、12歳で支那事変、16歳で太平洋戦争、勢い軍国主義は頭の髄から叩き込まれ、八紘一宇(はっこういちう)・天壌無窮(てんじょうむきゅう)・身を鴻毛(こうもう)の軽きに致す・悠久の大義に生きる……等々今から思えば誠に格好よく人を酔わせる言葉を何の疑もなく受け入れていた。私の学んだ学校は戦時下でもなるべく社会の荒風に当てないように教育してくれていたが、学期毎に職業軍人の徹底した軍国調の演説会があった。今は常識となった個性尊重・自由主義などは、非国民扱いを受ける。至誠ニ悖(もと)ルナカリキカ、努力ニ欠クルナカリキカなどのスローガンを毎日唱えさせられた。

 それが敗戦と同時に、新日本建設は民主主義で……などと言われてもおいそれと受け入れる程私は従順ではなかった。何十年も教え続けられたあの主義は何だったのだろう。何が真実の道なのだろう。私と同年齢の男子が何人も特攻隊で戦死しているというのに。NHKラジオの「真相箱(しんそうばこ)」という番組は日本軍がいかに非人道の行為をしたかということを毎日放送していた。曽ては日本の軍隊は皇軍と呼ばれ、兵は神兵と教えられた。何でこんな事が伝えられるのか、本当はどちらか。私たちは何を信じたらよいのか。裏切られた。躍らされていた。あれ程信じ敬っていた国に!という思いが胸にいっぱいに満ちてしまった。

 このような時、もう政府の宣伝なんか信じるものか、自分で真実の道を捜そうと一人で不貞腐(ふてくさ)れていた。父が法華会に誘ってくれた。私たちは空襲で被災し、信州の山奥に疎開し慣れない百姓仕事の真似をして惨めな暮しをしていた。その中で父は一ヶ月に一度は上京し、細々と続いていた法華会の月例会に参加していた。私が始めて、東京・千駄谷の仙寿院で開かれていた久保田正文先生の講話の席の片隅に坐ったのは昭和23年の冬だったように記憶する。久保田先生は小林一郎先生の一番弟子。父は「今、この世の中で一番信用し、尊敬できるお方」と私を仙寿院に連れて行ってくれたのだ。


※上の写真は現在(2006年)の仙寿院。クリックすると別画面で拡大します。
 仙寿院の所在地は→

 仙寿院も被災し、掘っ立て小屋の一室でごく小人数の人たちを相手に、それは熱心にお経の講義をしておられた。周囲は焼け跡の整理も手つかずの荒れ放題、あの上品な奥様もモンペ姿、台所とは名のみの引き戸の代りに焼けトタンを縄で縛った仮小屋であった。そのような殺伐とした背景にも拘わらず先生は端然と、この言葉以外にその時の光景を表わすのを知らない。何物にも損なわれない、品格を具えたお姿に息を呑む思いだった。今の人には想像もできない荒れ放題の環境、そして疲れ切り空腹を抱え目だけギラギラさせた人たちが右往左往している世相の中で、何と整ったお姿だろうと思った。

 お経の中にも度々お釈迦さまのお姿の美しさが克明に記されている。三十二相八十種好を備えて……とある。矢張り教えを受ける側からは大事な表現ということは今にして理解できる。久保田先生は決して美男子という訳ではない。そんな些細なことを超越した研ぎ澄まされた風格は争えないものだと確信した。このお方ならホンモノだ、このお方なら真実の道を教えて頂けると信じた。

 毎月一度開かれるその会に、父と一緒に信州の山奥から上京し参加した。まだ中央線が電化されていない坐席指定もない時代。松本駅から新宿まで九時間近く立ち詰めのこともあった。車中は殆どが買い出しや闇屋(やみや)と呼ばれる人たち、皆大きな荷物を背負って只でさえ満員のそこへ大荷物が並べてあるのだから身動きもできない。若かったからあの地獄のような車中も我慢できたのだろう。

 講義は法華経を中心にされていた。その当時は暖房設備などある筈もなく、火鉢が一つあるだけ、夏は窓を開放してお墓から来る蚊に悩まされながら拝聴した。それでも活発に質疑応答がされた。中には「仏教界の戦争責任はどうなっているか。何故開戦に反対しなかったか」と先生を指差しながら声を荒げ足音を立てて出て行く復員学生もいた。学業半ばで学徒兵として狩り出され、何とか生きて帰ってくれば踏々(とうとう)たるインフレ、アルバイトに終始する毎日では誰かに不満をぶつけたかったのだろう。それでも先生は少しも態度を変えられず、穏やかに講義を進められた。

 法華会は決して俗な意味の御利益を説かない。法華経を信じたからといって、お金が儲かることはない、病気が治ることもない。「生死(しょうじ)の岸を離れる」ことを説かれる。これは真実だけれどこれが一番難しい。盛となるも衰えも一つの現象に過ぎない。仏教はそのようなことを問題にしているのではない。そのような現象に煩わされず心をいつも平らかに保つことを最高の目的とせよと教えられた。けれど俗世間にどっぷり漬かっている私たちはどうしても経済的には安定したいし、病苦からは脱れたい。それに気をとられるなと言われてもどうしたらよいか分らない。その苦しみを越えるには題目修行がある。いつも心にお題目を唱え続けていれば段々に心が落着いてくる。貧乏もいいじゃないか、病気も一つの契機となることも世の識者が説かれるところだ。結果がどうでもあれ、心が平安になることが一番大事であると教えられた。

 ある日、先生は私に「人間にとって一番大事なことは何か」と質問なさった。私は一生懸命考えて「社会の片隅に在(あ)っても一隅(いちぐう)を照らす人間になることです」と答えた。我乍ら優等生の答ができたと内心思った。ところが先生は「ホホウ、まだまだ若いナ。人間にとって一番大事なことは、食べること、眠ること、そして出すこと」と飛んでもないことを仰言った。えッと思わず叫び声をあげそうになった。食べること、眠ること、そして排泄だなんて動物(人間も大きい意味で動物だけれど)と同じではないか。そんな事が人間の一番大事なことなんて、先生は私を揶揄(からか)っておられるのかと不満でいっぱいになった。しかし時間が経ち年を重ねると、矢張り先生のお言葉は真実ということが理解できた。そのような日常の些細なことを丁寧に重ねることが大事と教えられたことが分った。些細なことを忠実に出来ない人間は結局大きなことは出来ない。真実の道は決して難行苦行をして飛び放れた所にあるのではなく、ごくごく身近な平凡な所にあることを教えられたと後年になって思い知らされた。そう言えば先生は常々「私は平凡に徹することを目標にしている」と言われた。これが大事なことだと思う。近年、空中遊泳だの怪しげな呪術に迷わされた高学歴の青年たちの集団の事件があった。師に惑わされたアヒンサカの悲劇をこの現代に繰り返されるとは何と不運な青年たちだろう。善き師に逢う御縁を大切にしたい。

法華会記念写真
※左の写真は昭和25年5月小石川・後楽園の「涵徳亭」で開かれた法華会総会。クリックすると別画面で拡大します。





 私が初めて法華会総会に出席したのは昭和25年5月だった。小石川・後楽園の「涵徳亭(かんとくてい)」で開かれた。受付には茂田井・兜木両先生がおられた。将来大物になられた両先生が受付ということは当時の法華会が如何に多士済済、参加者も50人以上の盛況だった。因みに夫、春日屋伸昌は昭和17年に法華会に入った。その頃は久保田先生が受付だったそうだ。受付におられた若手の先生方が将来の宗門の長老となられたという事例は、現在『法華』の編集や総会の準備に超過密スケジュールの中から献身的に御協力を頂いている安中・高森両先生の将来も輝かしいものに違いない。兜木先生に「吉村孝一郎の娘でございます」と御挨拶をすると「あそこに居られる山田先生に挨拶して来なさい」と言われた。山田先生と言えば父が尊敬して止まない大先生、法学界の頂点に立たれる御方、私如き者が近寄っていけないと逡巡(じゅんじゅん)していると早く行って来なさいと催促された。緊張しながら勇(ゆう)を鼓(こ)して山田先生に御挨拶すると先生は優しく「若い人が入ってくるのは活気が出てよろしい。しっかり学んで行きなさい」と仰言った。先生の激励も空しく今でもボヤボヤしているのは誠に申し訳なく思っている。
 仙寿院で毎月開かれていた法華会の月例会も、やがて占領軍に接収されていた神田一ツ橋の学士会館が返還されて、その一室で開かれるようになった。学士会館の理事長でもあられた山田先生のお蔭である。


※上の写真左は、当時の面影そのままの神田一ツ橋学士会館(2006年撮影)。
 写真右は、学士会館内の山田三良先生の胸像。
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 久保田先生のお講義は毎月参加者が増え続け307号室の定員を遥かに上廻り、事務の森田さんが椅子の確保に毎月苦労していた。でも何と至福の時だったろう。決して激しい言葉や大袈裟な形容もなく、むしろ淡々と続けられたお講義は今思い出しても胸が熱くなる。昭和25年から3年程法華の編集を手伝わせて頂いたことも有難い経験だった。紙の事情も悪く、毎月の発送も封筒が買えなくて新聞紙に墨で宛名を書いてグルグル巻きにして出した。

 のち、山形晶子氏が編集の専任を引き受けて下さった。イラストレーターなので印刷で紙面に隙が出るとお得意のイラストを入れて『法華』に新しい彩りを吹き込んで下さった。

 花祭りは学士会館で毎年盛大に行なわれた。その頃は参加者の半分は子供たちで私の二人の子も仲間に入れて頂いた。手品や合唱やお話やらで楽しくお釈迦さまのお誕生を祝った。井上初子氏の4人の令嬢の日本舞踊も毎年華やかに披露された。近頃は上野の徳大寺で、立正大学熊谷寮の寮生が多く参加され毎年若い迫力のある唱題が上げられるのは何とも頼もしい。

※写真は現在(2006年)の徳大寺。
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徳大寺の所在地は↓
  


 夏季清集は雑司ヶ谷の兜木先生の本納寺、その頃は二日間、次は仙寿院に引き継がれ、現在は日暮里の望月先生の善性寺で行なわれている。午前6時半に勤行、7時に朝粥、8時からお講義、10時から懇談会で11時に終る。毎年美味しいお粥を用意して頂く庫裡の御苦労には感謝を捧げたい。
※左は現在(2006年)の雑司ヶ谷本納寺
 本納寺の所在地は→





※右は現在(2006年)の
 日暮里善性寺。

 善性寺の所在地は↓
    



 昭和51年から7年間、夏に長野県の有明道場で二泊三日の研修が行なわれた。法華会の評議員であった故丸山厳雄氏が私財のすべてを投げ出して作られた道場である。地元の人は勿論遠くの地からも参加者が毎年5、60人以上あり賑やかに行なわれた。立正大学の教授方も多く参加され有意義な行事だった。道場の卒業生の集まりである“みずほ会”の重だった人たちの御協力なしでは成り立たないことを思い改めて御礼を申し上げたい。

 秋には霊跡参拝として日蓮聖人ゆかりのお寺に毎年お参りさせて頂いた。ある年、身延山久遠寺と七面山登詣が二泊三日で行なわれた。七面山登詣は決して楽な坂ではない。でも耳よりの助言をして下さるお方があった。七面山は一歩一歩、南無妙法蓮華経と唱えながら登りなさい。七歩でお題目が一回、それを一万遍繰り返すとちょうど山頂に到達できるということだ。一度、一日に一万遍の唱題をしたいと思っていたのでこれは絶好のチャンスと思って登った。途中で休んだり饒舌ったりで果たして一万遍唱えたかどうか怪しいがどうにか登れた。生憎曇っていて眺望はきかなかったが富士山がほんの少し顔を出してくれた。登りより降りの方がずっと辛かったことを憶えている。

※左の写真は法華会創立70周年特別講演会における
日本山妙法寺藤井日達上人。







 創立70周年はホテル・オークラで行なわれた。日本山妙法寺の藤井日達上人が百歳の高齢にも拘わらず特別講演をして下さった。藤井上人の知名度も預ってではあるが週刊誌のグラビアを飾る程の盛況であった。当時理事長だった春日屋伸昌は「二人で長生きをして100周年を見届けよう」と言ったのに五年後にあっさり他界。80周年は当時の加治理事長が病欠、現在の理事長の高宮氏が責任者となられた。この時も立正大学の学生さんや教授の磯貝先生の御協力で思いがけない程活気のある会になった。中村元先生も大分お年をとられておられ、恐らくあの会が最後のお講義だったように思う。

 久保田先生の御他界後、法華経講話は春日屋伸昌が8年間、他界後は立正大学名誉教授の渡辺宝陽先生が引き継がれ、現在に到っている。毎回丁寧なレシピを用意され解り易く解説して頂いている。

 法華会は誠に地味な会で、会員も重だった人は老境に入り、又は他界されてしまった。曽ての盛会を懐しむ声もあるが、しかし久保田先生は「会が大きくなることなど願ってはいけない。小さくても資質の向上に努め、法華経の本来の道を愚直なまでに護って行く。会員の一人一人が正定聚になることを誓いなさい。それがこの会を創立されたお三人の大先達の願いです」と仰言っておられた。

 伝統の重みは時に大きな負荷となる。けれどそれは本当は有難い恵まれた重荷であることを自覚して励んで行きたい。

 ……我、現一切色身三昧を得たる。皆是れ法華経を聞くことを得る力なり。……   ――妙法蓮華経薬王本事品第二十三――

 既に法華経に約束されているではないか。真に法華経を聞くことを得る力、とは日常の些少のことにも心を傾け一つ一つを丁寧に行じて行くこと。これがいつかは釈尊のお教えに少しでも近付くことができるのを信じていたい。

 ……法華経を余人のよみ候は口ばかり言(ことば)ばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず……。(土籠御書)

 お釈迦さまのお教えを身に読んで私たちにも分る言葉で伝えて下さった日蓮聖人に叱られないよう能う限りの力で身に読んで行きたい。


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法華会記念写真
春日屋さんのお話の中に出てくる、昭和25年東京小石川涵徳亭で
開かれた法華会総会の記念写真。
クリックすると別画面で拡大します。

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