法華経思想の蘇生 ――「法華会」九十周年にあたって―― 渡 邊 寶 陽 (わたなべ ほうよう) (法華会理事 立正大学名誉教授 文博) 一 『法華経』に深い縁を頂いて生きてきた者にとって、『法華経』ほどありがたい仏典はない。けれども、世間にはいろいろな方が居り、『法華経』が信奉されてきた歴史の歩みもいろいろな変化があった。 日本でこれほど『法華経』が信奉されるようになった端緒は、やはり聖徳太子に淵源するであろう。太子が「法華経義疏」「維摩経義疏」「勝鬘経義疏」の<三経義疏>を講義したことはよく知られている。これらの三つの仏典は、いずれも仏教を社会的規範とするという点で一致しているのではないかというのが、筆者が{葦の髄から天井を覗く}ような視点からの思いである。 いうまでもなく、『維摩経』は維摩居士の仏教賛仰という独自の視点に立っている。それに対して『勝鬘経』は、勝鬘夫人が(本来は如来の分身かそれに匹敵する身に現われるべきであるのだけれども)阿踰闍国(あしゅじゃこく)の人びとを教化するために女性の姿として現われ、その教化を示したのである。維摩居士も勝鬘夫人もいずれも社会生活を営む在俗の姿として現われながら、しかし、「一乗の仏教」を詮じ表す姿を示しているのが興味深い。 それにもまして、『法華経』はまさに「一乗の仏教」を明らかにしている。「一乗」とは、出家者を中心とする声聞乗や緑覚乗という狭い範囲の仏教求道を超えた道を示している教えである。すなわち、仏陀の導きに素直に従うことこそ、ひたすら仏陀の指し示される一筋の求道の道、すなわち「一仏乗」という簡明な道標であると理解してよろしいかと思う。それは風景として思い描くならば、「阿蘭若住」(あらんにゃじゅう)といって、人里離れた僧院で仏教を求める出家僧を中心とするイメージに対して、人里離れた僧院での求道も、社会生活を営みながらの求道も、その基本において一致しているとする思想を蔵していると理解することができよう。 そのようなイメージを見事に明らかにしているのが『法華経』であり、であればこそ<三経義疏>が一体的に聖徳太子によって讃歎されたのであろうと考えられる。このように世間と出世間という簡単な図式を取り払った『法華経』と他の二つの仏典の示す教えに、聖徳太子は新たな日本という国造りの基本を見たのではないかと愚感する。 その後、聖武天皇と光明皇后によって発願された東大寺を総国分寺とする、国分寺・国分尼寺の全国への創設という基本構想にあって、『法華経』は国分尼寺における懺悔滅罪の経典として意味づけられた。 二 奈良の都に限界が感じられ、平安の都(京都)に遷都されるという時代状況の変化の中で、伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開いたのであった。弘法大師空海は都に東寺を、そして紀州の山中に高野山金剛峰寺の礎を築いたのであった。 比叡山延暦寺はさながら仏教総合大学の観があり、法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗)、道元禅師(曹洞禅宗)、日蓮聖人(日蓮宗)の鎌倉新仏教の四人の祖師を生んだ。そのような華々しい歴史をたどると、その背景に『法華経』信仰を耕した平安貴族の仏教普及がある。今日、平安仏教の歴史、文学、美術など多方面にわたる法華経信仰の足跡が、それぞれの専門家によって検証されている。 同じく「法華経」讃歎といいながら、平安仏教と鎌倉新仏教との間には、大きな懸隔がある。平安仏教は平安貴族によって支えられていたから、仏像や建築など多額な費用を要するものが重んじられた傾向が見られるのではなかろうか。宇治の平等院の建築に要した費用など、想像を絶するものがある。写経においても、絵画の技法を駆使した色彩感覚豊かな例は、ついに壱千年の歴史を超えて安芸宮島の「平家納経」としてわれわれの前に姿を現わすのである。その他「扇面経」など、成立事情がよくわからないものや、埋経の事例なども数限りなく伝えられている。 そうしたものを介在しての仏教信仰の表白に対して、鎌倉新仏教はまさに{心のありようの世界}そのものの究明を中心課題としていると言えるであろう。先年、東京国立博物館で展示された「大日蓮展」に接したある仏具の専門家の感想は、「お金がかけられているものが少なかった」という感想であった。それを聞いて成程!と思った。教科書で読むのと違って、その一言はまざまざと{心のありよう}に基づく信仰の軌跡としてそれぞれの対象に接しなければならないという思いに駆られたものである。 三 時を経て明治維新後、神道国教化政策の推進と転換。キリスト教排撃から融和の方策への転換。等々の経過を経るなかで旧来の徳川幕府の庇護のもとにあった浄土宗、天台宗はそれぞれ壊滅的な打撃を受け、その他、禅・真言等々の諸宗派も精神的・経済的な基盤を失うという大打撃を受けた。 その一方では、相応の圧迫を受けながらも、権力からの絶大な庇護とは縁の遠かった存在であった日蓮宗が相応の恵みを受け、近代日蓮主義が急激な成長を示していったと愚考する。まさに滔々たる時代の流れである。 そうした流れのなかで、明治大帝の死は日本国民に大きな衝撃を与えたことが、たとえば夏目漱石がそれを機に筆を折るということにも象徴されよう。 「いったい、これからの日本はどうなっていくのか」という不安が各方面に拡散していった雰囲気は、その時代を知らない筆者などには想像の域を超えるが、なるほどそうであったのかということだけは分かるような気がする。 その頃、東京帝国大学法学部教授(後に法学部長)であられた山田三良先生は、大審院検事の矢野茂先生や中央大学文学部教授(倫理学担当)の小林一郎先生らとともに、「今後の日本の在り方」について、地方に赴いて講演する機会が多くあった。そうしたなかで、「法華経」の精神を根幹とする生き方という一点で共鳴する三先生が、在家の力を結集して『法華経』の心を学びとっていかねばならないということで意見の一致を見たのであった。このような経過を経て「法華会」が設立され、のちに財団法人としてその位置を確かなものにすることとなったのである。 四 のちに、小林一郎先生の法華経講話の記録が『法華経大講座』十三巻として平凡社から出版され、洛陽の紙価を高めた。小林一郎先生は、東京帝国大学を首席で卒業し、金時計を受賞した俊秀であったという。同期生で銀時計を受賞したのが、のちに東京帝国大学に宗教学科を創設した姉崎正治先生であったそうである(あたかも、日本に宗教学の講座が開かれてから百年目を迎え、世界的規模の宗教学宗教史学会が、日本学術会議と日本宗教学会の共催で、2005年3月に東京で開催される)。ちなみに、さらにその後、姉崎先生の理解と協力を得て設置されたのが印度哲学梵文学科であったと聞く(ちなみに同科の現在の名称は、インド哲学仏教学専攻である)。小林一郎先生の英才ぶりが偲ばれるエピソードである。 小林一郎先生が「法華経」に関心を寄せるようになったのは、明治37年4月に日蓮宗大学林が設立されるにあたり、倫理学の教授として招請されたことが契機になったと聞かされている。日蓮宗大学林の初代学長に就任したのは、小林日董(にっとう)という学僧であった。同姓の小林先生はその人格に深く傾倒し、『法華経』を研究し、大乗仏教研鑽に没頭し、日蓮聖人御遺文に耽溺したのだという。実はあまりにも人口に膾炙した『法華経大講座』十三巻の前に、「法華」誌上で『法華経講話』を講じつづけておられることは周知の通りである。実はそれ依然に小型の書籍に、語釈をはじめ、詳細丹念な解釈を集約した好著を出版するなど基本的な研究を積みかさねるという努力を傾注されたことを、最近知った。 その後、社会の各層に大きな影響力を与えた頼本法華宗管長本多日生上人の遷化後、統一団から小林先生に「法華経講義」の連続講話の依頼があったのであった。本多日生上人亡き後に、法華経を講ずるにふさわしい適任者として小林先生に白羽の矢が立ったのである。「法華」誌への寄稿をたどつてみると、小林先生はむしろそれぞれ独立した文章で、『法華経』を語っておられるように思われる。その後、統一団での講義の筆録がまとめられて、昭和10年9月から毎月一冊の割合で『法華経大講座』十三巻が平凡社から出版され、江湖の関心を集めることとなったのである。 五 法華会は、前記の三先生を中心にして大いに世間にはばたいた。財団法人となってから、中枢にあった方々が一致結束して満鉄の株を求め、万全の策を講じたかに見えた。ところが、第二次大戦の敗戦によって、戦後の運営に苦難を迎えた。歴代理事長はじめ、理事・評議員が苦労されたと聞く。第二次世界大戦後の非常に出版事情の困難な中、「法華」誌は季刊として編集・刊行されてきた時期がある。瀟洒な生活スタイルを全うされた兜木正亨先生が、手押し車で印刷所から出来上がった「法華」誌を御自坊の雑司が谷・本納寺に搬入し、流麗な墨跡で自ら宛名を書いて発送されるという、現在では考えられない御苦労をなさったと耳にしている。戦前から先生は法華版経の研究を続けられ、その成果を企刊して文学博士の学位を得た。その間、フランス・イギリスを訪問して博物館等に所蔵されている敦煌写本の整理などの地道な研究は広く歴史学・仏教学など幅広い学者・研究者から着目されていることは周知の通りである。反面あまり知られていないが、その地道な法華会活動は実は大きな大きな輪を法華信仰の底力として大きな影響を与えており、同時に文化的側面での役割を発揮してきたのである。 筆者は、立正大学入学後、小石川涵徳亭を会場として開催された、おそらく戦後第三回目の法華会総会以来の御縁を得て今日に至っている。その間、晩年の山田三良先生の謦咳に接することができ、市原求・春日屋伸昌・加治甚吾らの歴代理事長にお目にかかることもできた。久保田正文先生は「法華経講話の久保田」か、「久保田の法華経講話」かといわれるほどの名声を得られ、日本仏教における法華経精神の代弁者としての位置にあられた。木内信胤先生の独特の法華経への参入、経済時評を通じての法華会会員への激励を終始遂行された。のみならず、聖教護持財団理事長として、中山法華経寺内の聖教殿の修理への情熱的な対処など、その足跡にひたすら感謝を申し上げたい。 さらに御縁を頂いて毎月の例会を担当させて頂いているが、今後さらに会員諸賢、ならびに有縁各位のお力を発揮して頂いて、法華経の精神の開拓と、その文化的発揚に共に進んでいくことを誓い合いたいと念願するものである。 |
渡邊先生がご住職をお勤めの東京足立区法立寺。 (クリックすると拡大します) |
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